天誅組の変
文久3年(1863)8月13日(新暦9月26日)攘夷祈願のため孝明天皇の大和行幸の詔が発せられた。
翌14日、皇軍御先鋒と称して前侍従中山忠光卿以下39名が京都方広寺に結集。舟で淀川を下り大坂を経て堺に上陸した。水郡邸で河内勢が合流。観心寺に参詣し、後村上天皇陵及び楠木正成の首塚で戦勝祈願して、千早峠を越え、17日、五條代官所を襲撃。桜井寺を本陣とした。
18日、京都で薩摩・会津などの公武合体派による政変が起こり、大和行幸が中止。情勢が一変して天誅組は大義名分を失った。
天誅組は、十津川に挙兵を求め、幕府追討軍と戦ったが、次第に追い詰められ、十津川を南下。大峰山系を東に転じて笠捨山を越えて北山に入り、東熊野街道を北上。川上の武木村で最後の昼食をとり、足ノ郷峠を越えて9月24日(新暦11月5日)七つ半頃(午後5時頃)、鷲家口(現東吉野村大字小川)まで1里ほどの五本桜にたどりついた。軍議を開き、彦根勢が待ち構える鷲家口を突破するため決死隊を編成。鷲家口に突入し壮烈な戦いが繰り広げられた。
この日から28日にかけて、那須信吾を隊長とする6名の決死隊をはじめ、藤本鉄石、松本奎堂、吉村寅太郎の三総裁など17名の若き天誅組志士たちが戦死または捕らえられた。
五條代官所を襲撃して挙兵した天誅組は、40日余りの戦闘の後、ここ東吉野村において事実上壊滅した。
鷲家口を突破した志士たちも、桜井、天理、生駒で追討軍によって捕らわれたり戦死し、大坂の長州藩邸に逃れ得たのは、わずかに主将中山忠光卿主従7名であった。また、明治維新まで生きのびたのは二、三名に過ぎなかった。