東吉野村における天誅組の顕彰活動

鷲家口の戦闘後まもなく、村人たちは戦死した天誅組志士たちの遺体の収容、埋葬、慰霊をはじめた。
明治20年11月、5年にわたる「分置県請願運動」が実を結び、奈良県が大阪府から分かれて誕生した。中央でこの請願運動に協力したのは、天誅組の生き残りで当時大審院判事を務めていた奈良県出身の北畠治房(はるふさ)(平岡鳩平)であった。また、翌明治22年に実施された町村合併で小川村・高見村・四郷村が誕生した。一方、明治元年から明治43年にかけて、明治政府は維新前後尊攘憂世(そんじょうゆうせい)の志士たちに贈位と靖国神社への合祀(ごうし)を行った。天誅組志士たちにも特旨による贈位、靖国神社への合祀が行われた。
新村発足間もないこの頃から、東吉野地域では、天誅組に対する評価の高まりの中で、中央政官界で活躍する天誅組の生き残りや土佐出身の維新の志士たちの協力もあって、天誅組志士たちの法要や墳墓の建設など、慰霊と顕彰活動が活発になってきた。
これに協力したのは、北畠治房(大阪控訴院長)であり、土佐勤王党の生き残りで天誅組総裁吉村寅太郎と同郷の土方久元(ひじかたひさもと)(宮内大臣)、田中光顕(みつあき)(同次官)、土方直行(なおゆき)(橿原神宮神官)、古澤滋(ふるさわうるお)(第三代奈良県知事)たちであった。
東吉野村天誅組顕彰会に残る「天誅組ニ係ル取調書」(明治24年頃の文書)に、天誅組志士の慰霊及び建碑についての経過が記録されている。現在、鷲家口の明治谷(みょうじだに)墓地や鷲家の湯ノ谷墓地に残る古い墓石は、明治28年の33回忌以前に建碑されたものである。
石の本墓地「吉村寅太郎原えい処」(げんえいどころ)の碑文は土方直行、宝泉寺前庭にある「天誅義士記念碑文」は土方久元の揮毫によるものである。中でも、湯ノ谷墓地に残る「藤本真金君之墓」の墓碑の裏面には「明治十二年越後三条人村井善・村山恒立」とある。はるかに遠い新潟三条から藤本鉄石戦死の地を訪ねて建碑したこの二人と鉄石との深い関係がしのばれる。
東吉野村における慰霊祭や墓地建設等の顕彰活動のようすは概(おおむ)ね次のとおりである。

[文久 4 年] 戦争後、鷲家口宝泉寺において、同年9月24日に第一周忌供養をはじめ、明治12年9月24日にいたるまで回忌を弔っている。
[明治18年] 鷲家口有志の発起にて小川郷各寺の僧侶14名を招き、宝泉寺において23回忌の供養を施行する。
[明治22年] 鷲家口有志の寄付で27回忌を弔い、神官6名を招聘し神楽を施行する。余興として花火数十本が打ち上げられる。梶谷留吉氏(鷲家)が殉難志士の建碑運動をはじめる。
[明治28年] 第三代奈良県知事古澤滋(ふるさわうるお)の主宰により、鷲家口宝泉寺で33回忌の大法要が施行され、遺族ほか村内外の著名人多数が参列し、墓地の整備等も行われる。
[明治29年] 大和の大洪水で、墓地・墓碑の崩壊流失等の被害がでる。
[大正 元 年] 小川村・高見村両村の主宰で50回忌が施行され、鷲家湯ノ谷墓地に「贈従四位松本謙三郎以下四士墳墓ノ碑」及び、石の本墓地に「贈正四位吉村寅太郎墳墓ノ碑」がそれぞれ建立され、同時に墓地の改修も行われる。
[大正 9 年] 鷲家口宝泉寺境内に「天誅義士記念」(宮内大臣土方久元揮毫) の大碑が建立される。梶谷信平著『天誅組烈士戦誌』(清水一心堂)が出版される。「湯ノ谷墓地」「石の本墓地」「明治谷墓地」は、この頃には現 在のように整備された。大正9年11月5日付、「天誅義士記念碑及び墓所石柵建設工事積算報告書」によれば、総工費2,150円50銭。
[大正11年] 60年祭(小川村主催、宝泉寺)
[昭和 7 年] 70回忌慰霊祭、記念法要(小川村主催、宝泉寺)特別記念事業として『天誅組の研究』(田村吉永著)が小川村より増刷発行。同9年、愛知県刈谷市亀城尋常高等小学校畔柳健(くろやなぎ)治校長が来村。
[昭和17年] 80年祭(小川村主催、宝泉寺)慰霊祭のほかにも各種の顕彰事業が盛大に行われた。なかでも、小川村内3小学校児童による「天誅組の義挙」に関する劇化を含めた発表には、村内外からの多数の参観者があった。愛知県刈谷町が松本奎堂戦死の地(伊豆尾笠松)と宍戸彌四郎戦死の地(小川千代橋)に記念碑を建立。9月14日、15日、大野一造刈谷町長外5名が除幕式に参列。記念撮影のため写真並びに16ミリ活動写真撮影をする。
[昭和28年] 90年祭(小川村主催、宝泉寺)村役場、消防団、婦人会、農業会、青年団、学校職員、児童・生徒、鷲家区・鷲家口区等の住民多数が参列し、盛大に祭典が挙行される。
[昭和37年] 100年祭(東吉野村主催、宝泉寺)四国、刈谷市等関係市町村の来賓及び、志士の遺族と彦根藩士の子孫が参列して盛大に施行される。紀州藩士的場喜一郎戦死の地碑を鷲家区が同区野見谷口に建立。昭和17年建立の宍戸彌四郎戦死の地碑が伊勢湾台風で流失したため、刈谷市が再建する。梶谷信平翁著『天誅組義挙録』(高知県梼原町教育委員会)が出版される。
[昭和48年] 110年祭(東吉野村主催、宝泉寺)
[昭和51年] 東吉野村天誅組顕彰会が結成される。東吉野村と高知県梼原町が友好町村の盟約を結ぶ。
[昭和55年] 伊豆尾の松本奎堂戦死の地碑を改修する。
[昭和56年] 東吉野村と高知県東津野村が姉妹村の盟約を結ぶ。
[昭和58年] 120年祭(天誅組顕彰会主催、宝泉寺)全ての「天誅組志士戦死の地」に建碑が終了する。湯ノ谷墓地(鷲家)と明治谷墓地(小川)に「天誅義士墓所之碑」が建立される。
[昭和62年] 吉村寅太郎原えい処(げんえいどころ)(鷲家谷石の本墓地)前に「天誅組終焉之地碑」が建立される。
[平成 元年] 小川、一原弘政(峰止)著『天誅組残照』が自費出版される。前後して、同氏が志士戦死の各史跡に顕彰詩碑を建てる。
[平成 2 年] 小川、一原弘政(峰止)著『南山夜話』が自費出版される。
[平成 5 年] 130年祭(天誅組顕彰会主催、宝泉寺)高知県東津野村・梼原町、愛知県刈谷市等の来賓が参列する。天誅組終焉の地案内板、義士戦死の地説明板が新調される。
[平成13年] 愛知県刈谷市文化協会が史跡を訪ねて来村する。
[平成14年] 伊豆尾の松本奎堂戦死の地に辞世歌碑を建立、建碑供養が施行される。「刈谷頌和会(かりやしょうわかい)」来村参列する。(天誅組顕彰会主催)松本奎堂戦死の地への道路及び駐車場が整備される。東吉野村教育委員会から『天誅組大和挙兵の概要』(阪本基義著)が発刊される。高知県東津野中学校修学旅行団が墓参を兼ねた来村がはじまる。
[平成15年] 140年祭(天誅組顕彰会主催)記念法要には高知県梼原町・東津野村、同村天誅組保存会、五條市天誅組保存会の代表等、多数参列する。同日、吉村寅太郎(石の本墓地)及び藤本鉄石(鷲家龍泉寺)の辞世歌碑を建立する。東吉野中学校、阪本基義校長が『草莽ノ記』~天誅組始末~を自費出版する。
[平成17年] 「天誅組終焉の地展」が開催される。(東吉野村教育委員会主催、たかすみ文庫)
[平成19年] 東吉野村と高知県津野町が姉妹町村の盟約を結ぶ。
[平成20年] 「天誅組145年記念行事」が開催される。(主催「維新の魁・天誅組」保存伝承・顕彰推進協議会、東吉野村住民ホール)