鷲家口の戦闘と三総裁の最期
鷲家口の戦闘
9月21日(新暦11月2日)、脱出路探索のため先行していた伴林光平、平岡鳩平、西田稲夫が、鷲家口から宇陀方面に向かったときには、追討軍は鷲家口に着陣していなかった。
9月24日(新暦11月5日)、彦根勢が鷲家口の「福屋」と「碇屋」に陣所を構え、紀州勢も夜には鷲家に着陣した。すでにあたりは秋の夕暮れで暗く、小雨が降っていたという。
天誅組本隊が五本桜まできたとき、二人の農夫に出会い鷲家口の状況を聞き出した。軍議を開き、決死隊を編成し鷲家口の敵陣へ斬り込み、その混乱に乗じて主将中山忠光卿ら本隊の鷲家口突破を謀(はか)った。
決死隊に選ばれたのは、那須信吾、宍戸彌四郎、林豹吉郎、鍋島米之助、植村定七、名所繁馬の6名であった。決死隊は、東熊野街道の鷲家口の手前を上出垣内に下って小川(現高見川)を渡り、宝泉寺の前を通り、彦根勢の脇本陣「碇屋」めがけて出店坂を駈け下りた。
植村定七は、出店坂上方の小橋付近で彦根藩歩兵頭伊藤彌左衛門を討ったが敵の銃弾に斃(たお)れた。決死隊長の那須信吾は、「碇屋」の前を切り抜け、四條屋儀平宅前で彦根の武将大館孫左衛門と渡り合い、これを斃して「碇屋」の前まで引き返してきたとき、敵の銃弾を浴びた。
宍戸彌四郎は、四條屋前を切り抜け、前北橋(現千代橋)のそばまできたとき、敵に囲まれ誤って鷲家川に転落、対岸に這(は)い上がろうとしたところを銃撃された。林豹吉郎は、前北橋の前を切り抜け更に進んだが、紙屋重兵衞宅前で敵の銃弾に斃れた。鍋島米之助は、出店坂の下り口で狙撃され重傷を負いながらも鷲家口を切り抜け、一ノ谷の辰巳友七宅の納屋に潜んでいたが、翌朝、敵兵に発見され銃殺された。決死隊の一人で彦根藩の書簡に「側役の者」と記録されている名所繁馬は、「碇屋」付近で銃撃され斃れたが、変名のため未(いま)だに人物の特定はされていない。
主将中山忠光卿を守護する20名ほどの本隊は、東熊野街道から鍛冶屋出垣内に出て彦根勢の本陣「福屋」を急襲。決死隊突入の間隙をぬって血路を開くため、小川(現高見川)を渡り、決死隊が突入した脇本陣「碇屋」方面へ向かった。
『大和日記』はいう。
「また井伊の陣所一つあり、ここにも敵勢鉄砲を備へ、バラバラと撃ち出すに、味方一両人撃ち斃さるるも顧みず、我一にと突き破る。敵も槍を以って向ひ戦う。このとき、味方の先勢何方(いずかた)にて戦ひけるか居合わせず。御旗本の面々槍を以て大いに働く。・・・旗本勢僅(わず)かなれども大将頻(しき)りに進み給(たま)ふ。・・・」
本隊は、鷲家口を切り抜け鷲家の手前(鷲家谷)まできた。鷲家には紀州勢200人ばかりが控えていた。討ち破ることをあきらめ、運を天に任せ、ひとまず落ち延びて他日また義兵を挙げんと決めて、各々諸方へ別れて脱出をはかった。
主将中山忠光卿主従7人は、西側の山中に分け入り、道なき山路をよじ登って、昼は隠れて夜に行動しながら岩清水、三輪山、高田を通り竹之内峠を越えて河内国に入り、9月27日(新暦11月8日)、ようやく大坂の長州藩邸にたどりついた。しかし、鷲家口を突破した隊士の多くは、桜井近辺で追討軍によって捕縛または銃殺された。
三総裁の最期
9月24日の夜、手薄の陣に斬り込まれ多くの天誅組隊士を取り逃した追討軍は、25日早朝から残党を追って付近の山狩りを開始した。彦根、紀州、藤堂の兵千人以上を動員し、ほぼ1週間にわたって広範囲に探索した。
傷病者のいる後陣は、本隊に遅れながらも鷲家口をめざした。両眼失明の松本奎堂、大腿を負傷した吉村寅太郎、安岡嘉助らは駕籠を用い、これに傷病者や藤本鉄石ら壮年組が同行した。
松本奎堂、藤本鉄石と一緒に足ノ郷を越えてきた14、5名の一団は、五本桜を過ぎ、鷲家口の手前3㎞ほど東南の一本松で御山谷(みやまだに)を下り、丹生川上神社付近に出て高見川に沿って遡(さかのぼ)り、木津川から御殿越えの急な山道を登って、夜半過ぎに伊豆尾の庄屋松本清兵衛宅に入った。奎堂、鉄石の各主従4名はここで一夜を過ごし、他の者は小休息の後、木津方面に向かった。
25日昼過ぎ、松本奎堂と村上万吉主従は、鷲家に向かう御殿越えの地蔵堂前で、追討軍の銃声に驚いた駕籠かき人夫に逃げられ、付近を探索中の紀州兵に発見されて銃撃を受け最期を遂げた。
松本奎堂らと別れた藤本鉄石と福浦元吉の二人は、伊豆尾から貝ノ谷を下り、野見谷口で紀州勢銃手の的場喜一郎を斃し、続いて紀州藩脇本陣「日裏屋」に突入、大激闘の末、二人とも壮絶な最期を遂げた。
藤本鉄石(津之助)・福浦元吉主従の最期は、紀州藩の記録に次のように出ている。
「・・・彌右衛門家来高田熊助、鉄砲打掛け候へ共、一揆主従両人稲妻の如く駆廻り、打留兼(うちとめかね)候内、両人とも旅宿へ駆込み、津之助は旅宿に所持の長押(なげし)に掛けたる槍を手早く取り、主従必死に相働き、彌右衛門見掛け討てかかるべきを、一同一時に突立て、下人は真向にかざし、聲(こえ)を掛け、すでに二階に上らんとする時、奥村立蔵、上より槍を突掛け、下よりも支へ候筋もこれあり、段梯子(だんばしご)上りかね、両人叉復(またまた)奥庭へ駆廻る。下人の真向うを、梶川三十郎、槍にて一突きに当て、主人津之助は以前の槍にて林楠之丞(くすのじよう)見掛け突掛り候処、楠之丞浅手負い候まま槍を引きたくる。二階の屋根より寺社方陸尺(りくしやく)利右衛門、瓦を投げ掛かる。津之助座敷へ飛上り、なお駈廻る処を川上七郎家来花光(はなみつ)伊右衛門、駆来りて槍を合わす。続いて甚蔵(じんぞう)左へ廻り、刀を以て左の腮(あご)より肩へ七、八寸斬下げ、津之助溜(たま)り得ず、そのまま座敷へ斃る。・・」
鉄石・元吉の死闘のようすが目に見えるようである。紀州藩の副隊長軍役方頭取主役の金澤弥右衛門は、鉄石らの猛襲に怖(おそ)れをなして「日裏屋」の奥座敷から鷲家川に飛び降り、八幡神社の祠(ほこら)の内に逃げ込んでいた。また、「日裏屋」の西隣、庄屋辻四郎三郎方を本陣にしていた紀州藩の家老山高左近(さこん)も、この騒ぎのときには、同じように八幡神社に逃げていたと記録されている。
24日、筵(むしろ)作りの駕籠に乗った吉村寅太郎と傷病者の一行は、本隊にかなり遅れていた。鷲家口の手前1㎞の三畝峠にさしかかると、鷲家口では追討軍の篝火(かがりび)が燃え銃声が谺(こだま)していた。これに驚いた人夫は寅太郎の駕籠を投げ出して逃げてしまった。どうすることもできずにいると、後続の山下佐吉・山崎吉之助・森下幾馬らが追いつき寅太郎を助けて小村の石舟垣内に下った。当地の「簾屋(すだれや)」で休息して駕籠と人夫を雇い木津川の庄屋堂本孫兵衛宅に匿(かくま)われた。しかし、追討軍の探索が厳しくなってきたため、堂本宅を出た寅太郎一行は、裏山を越え鷲家口と鷲家の村境の籠屋畑にある一軒家に辿(たど)り着いた。寅太郎は、ここで一同に別れを告げ、近くの薪小屋に潜んでいた。27日早朝、この家の老婆が発見して藤堂藩陣所に訴えた。陣所では、早速40名の藩兵が捕縛に出向いたが、天誅組と聞いて誰一人近寄らない。
寅太郎は朱鞘(しゅざや)の小刀をさげて悠然と、「予は義党の首領吉村寅太郎である。心を皇室の回復によせ東奔西走、今回叡慮(えいりよ)を奉じて義兵を挙げたがこと敗れた。これも天命なり、ただ尽くすべき臣節は終わった。今は潔く大義に殉ずるのほか思い残すことはないが、武士には死に際に士道を辱(はずかし)めないことである。このことについて頭分に面会したい。」と述べた。しかし、彼らは自決を許さず、四方から弾を発した。寅太郎は「残念!」と叫んで斃れた。
以上が、東吉野村における天誅組の戦闘のようすであるが、東吉野村を脱出した志士たちがどれほどいたのだろうか。いろいろな文献から推定すると、9月21日、本隊に先行した伴林光平一行3名。24日、東吉野脱出に成功したのが4名。25日、宇陀で捕縛2名・丹波市付近で捕縛5名・三輪付近で捕縛5名。26日、桜井で戦死・捕縛が6名。27日、大坂長州藩邸に逃れた主将中山忠光卿主従7名。28日、桜井で捕縛・自刃が4名の36名が数えられる。それに東吉野村で難にあった隊士17名を加えると、50名以上が24日の夜に足ノ郷を越えて東吉野村(鷲家口・小村)に突入してきたことになる。さらに、追討軍の包囲が解かれてから東吉野村を通って脱出した隊士も数名いる。